What's Up!

2010年のメッセージ「魚は頭から腐る」

2010年2月13日
Quito in Ecuador, 1983

魚は頭から腐る

・・・という諺がありますが、組織が大きくなればなるほど、その傾向が強くなります。

日本全体で言えば、政治家や官僚を始めとする「大人の腐敗」が進めば、一般社会で働く人間だけでなく、学校に通う「若者たち」のモラルまで低下し、無気力感が蔓延し始めます。小学校・中学校・高校では児童や生徒、大学では学生が「主役」であるはずですが、いつのまにか「教育現場」という以前に、その組織に巣くう教育関係者たちの「職場」に成り下がっています。ありとあらゆる発想が、主役である「生徒」に対する「教育」が中心に考えられているのではなく、脇役であるはずの「教師」がいかに働きやすいかという点が中心に考えられた「職場」としての学校に成り下がってきています。このような露骨な本末転倒がまかり通るようでは、まともな教育などできません。

ゆとり教育という詭弁

さすがに文部科学省はエリート集団だけあって、このような本末転倒ぶりに対しても、見事な「詭弁」を多数用意しています。

「ゆとり教育」「個性化教育」という言葉は、もはや詭弁としての役割も果たせないほど世間一般にもその無意味さを露呈してしまい、以前はマスコミなどで「ゆとり教育」を盛り上げていた元教師であるTV出演の常連である教育評論屋まで恥かしげも無く「ゆとり教育」を批判し始めるようなありさまです。なるほど「ゆとり教育」や「個性化教育」の主旨は私にも理解できます。しかし、彼らの間違いは「生徒のゆとり」ではなく「教師のゆとり」を求めた点にあるのです。つまり最初から「ゆとり」を生徒の学力向上に結びつける目的ではなく、生徒に対する指導力が無くなってしまった学校を護る為の「詭弁」だったのです。かくして教職員のための週休2日制は定着し、学校は勉強の場ではなくなったにもかかわらず世間の批判の目を一時的には誤魔化せたのです。また、教えられて生まれるような「個性」など、せいぜいTVタレント風情が示す「個性」程度でしかなく、全て作りモノのうわべだけの個性にすぎません。しかも、教科書問題でもわかるように、とりわけ管理社会的傾向が強い現在の教育において完全に飼い慣らされた、最も没個性的な今の日本の学校の教師に、どうすれば個性化教育ができるのかも不思議でなりません。

最近ようやく、一般の親たちもその真相に気付き始めましたが、「ゆとり教育」世代の「努力しない事が当たり前」という考えが骨の髄までしみ込んだ若者が、今度は教師になり、筋金入りの無気力・無能・無責任教師による「ゆとり」のある「職場」が生まれ始めたのです。もはやそのような筋金入りの「ゆとり教師」には教師が報酬を伴う仕事であるという自覚すら無く、都合が悪ければノイローゼなどの情緒不安定状態になり、自分自身が職業人として不適格であるという事実も認めずに、平気な顔をしてカウンセラーに相談する始末です。生徒たちを指導するどころか、自分たち自身の精神状態もコントロールできない人間など即刻教師を辞するべきなのに、被害者面をして教壇に立ちもせず、いつまでも給料等の税金を喰い続けるのです。

文部科学省は「視聴率だけが命」であるTVというマスコミを利用したプロパガンダには大いにその「才能」を発揮し、それこそ「モンスター・ペアレント」など、社会の耳目を集めそうな「新語」を創って教師のレベル低下という真実から世間の目をそらし、次の詭弁を思いつくまで、ひたすら発覚を遅れさせるのです。大した研究もできずに、TV出演だけで食いつなぐ、本来無能なタレント御用学者たちも自分たちが気がつかない間に、それに同調させられ、世論操作に一役かっています。

学校教育現場の現状とその原因

勿論、学校の教師が100%このような駄目教師であるとは言えませんし、教師になった当時は、教育という理想に燃えて教師になった人も大勢いるはずです。しかし、冒頭でも述べましたように、組織のトップ「文部科学大臣や官僚、労働組合幹部」が教育には全く関心も知識も無い「政治屋」である限り、組織の腐敗は避けられません。

実際には教育において、最も重要な役割を担う教師は、組織の権力構造においては末端でしかないので、「あきらめ」か「迎合」のどちらかに奔らざるをえなくなります。前者は「無気力」になり、後者は文字通り良心を捨て去った悪徳教師になり管理職や組合の幹部などを目指します。たまに、やる気のある教師が、少しでも厳しい指導で行き過ぎがあると、視聴率向上だけを目的とし、考える力など皆無のタレント・コメンテーターが出演するTV番組の餌食となります。

また、私の長男は、小学校へ通い始めた頃から、学校へ行けば行くほど、何処で習ってくるのか、行儀や言葉使いが悪くなりました。行儀の悪い子供がいても、先生たちは全く注意しないと言います。おまけに、高校では自分が挨拶しても無視する先生までいると聞いて驚愕しました。私は信じ難く、「たまたま目と耳が不自由な先生で、お前が挨拶しているのに気が付かなかっただけではないか」と確かめたくらいです。しかし、残念ながら不自由なのは「目と耳」ではなく、「頭」だったのです。

確かに、行儀の悪い生徒に行儀や言葉遣いの悪さなど注意でもしようものなら、教育委員会に大きな影響力をもつ、「人権」ではなく「利権」目的の「人権団体」に手ひどい目に合わされるので、今や学校は最も礼節が失われた場になってしまったのかも知れません。このような環境では教師はやる気の芽まで摘まれてしまいます。その結果、学校は当たらず触らずの無気力教師がますます増殖し、汚水溜めのような場になってしまうのです。自分の頭で考える教師は「悪」とされ、文部科学省や教育委員会が提示する、組織を護る為だけの無意味な規則に九官鳥のように忠実に従う教師だけが「良」とされ続けているため、教師自身の思考力はどんどん低下し、従って、そのような教師に教えられる生徒は当然、自分で考える力など身に付くはずがありません。人に言われたことを鵜呑みにする人間を製造するなら、教育など必要ありません。自分の頭で考え、判断する能力を身に付けてもらえるからこそ、学校教育は意味をもつのです。

本当に「良い教師」とは

勉強に大切なことは「How」ではなく「Why」ですが、教育現場で実際に教壇に立ったことも無く、かと言って、限られた情報から現場の状況を想像する力さえない御用学者が提示する机上の空論を、そのまま現場で実践させようとするのが、今の文部科学省であり、これは連日報道されている他の省庁の堕落振りを見れば簡単に想像できることです。

このような全く練れていない御都合主義の方針に盲従する現場教師が増えれば増えるほど、生徒は意味の無い規則を強要され、勉強そのものに意味を感じなくなります。私自身、学校の様々な規則の中で意味の無いと思われる規則について何度も質問した事がありますが、規則の根拠について納得できる説明をしてもらった事は一度もありません。学校関係者自身が全く考えもせず規則に盲従し根拠も説明できないありさまでは、生徒が教師の言うことを素直に聞くはずはありません。カリキュラムや授業内容も与えられたものを自身で吟味もせず受け売りしかできない教師の言葉など、到底受け入れられるものではありません。

将来を担う若者たちの教育現場で「考えずに従うだけ」の習慣を身につけられた教師が、自分たちのクローンを製造し続けている図式は、想像するだけでも背筋が寒くなります。教育理念も無く、己の保身や蓄財に奔走し続けた文部科学省幹部や、本来主役である子供たちの教育はそっちのけで教師の待遇しか追及しない労働組合による厚遇に守られている教職員は、たとえ社会的にお荷物になろうとも自分たち自身は水槽の中の熱帯魚のような平穏な生活が送れるかもしれませんが、無気力・無責任な学校生活で社会の厳しさや言葉遣いなどの一般常識でさえ教えられずに放り出される若者は、結局、社会に順応できず「引きこもり」や「ネット難民」になるのです。たとえ、「こんな事では社会では生きてゆけないぞ」と思っても、それで警告を与えたり、叱って反感をかうより、「自分に合った努力だけをすればよい」というような心地の良い言葉で誤魔化す方が、「良い先生」としての印象を残せるのです。「良心を捨てて人に好かれる」政治家的発想の典型です。

子供のモラルを論じる前に大人のモラルを

このようにして、魚は頭から腐り始め、徐々に全体が腐ってしまうのです。

最近の若者のモラルの低下は目に余るものがあります。しかし、彼らも自ら好んでそのようになっているのではありません。子供の頃から10数年もの間、「教育の場」では無く「職場」である学校で教育を受け、その矛盾から生じる数々の理不尽さを受け入れ続ければ、素直な姿勢で社会を受け入れることなどできるはずも無いのです。

大人の世界では、京都出身の文部科学大臣が政務調査費等の私的な流用疑惑で世の中を騒がせたり、官僚が法律を盾にして天下りで私腹を肥やしたりしていても何の咎めも受けません。社会の上層に巣食う不正を正すことができないようでは、若者たちが社会に受け入れられるために努力をしなくなるのも当然です。

「学校は勉強の場である」という至極当たり前の事さえできない無能な学校関係者たちが「学校は勉強をするだけの場ではない」という詭弁で自己弁護をし、人間関係を重要視させるあまり「友人とは何か」という事さえわからない子供たちに「友達とは仲良くしなさい」など、自己主張を押さえつけ、社会の不正を飲み込む訓練ばかりさせていては、自分の頭で考える力がある子供が「協調性が無い」という理由で「いじめ」の対象にされるのも当然です。子供を直接指導できなくなった教師たちが、子供同士で牽制しあう仕組みをうまく利用してクラスを治める様子は、PTAを利用して保護者と学校の直接対立を避ける仕組みと酷似しています。社会に影響力のある大人たちが襟を正せば、子供は、遊ばせたり怠けさせたりする事で示す見せかけの元気ではなく、自然に本物の元気と自信を取り戻し前向きになるのです。80代の大人と60代の大人が争い事で殺人事件を起こすような社会で、子供だけにモラルを強要することは不可能です。理屈の通った説明ができる教育こそが要求される時代なのです。

地球環境への取り組み-まず大人が範を垂れよ

鳩山政権は地球温暖化防止を金看板にしていますが、もしその言葉に「嘘」が無いなら、国・地方を問わず、公用車は完全に軽自動車にすべきです。エネルギー・財政両面で国民の理解が得られるはずです。ハイブリッドや電気自動車なら良いだろうとか詭弁を使って、レクサスなどの高級ハイブリッド車にする必要はありません。たとえ外国の高官を迎える場合も、日本の地球温暖化防止への取り組みを十分に説明し、軽自動車で迎えれば、必ず理解してもらえるでしょう。高級車で迎えないと体面が保てないようであれば、教養の無い人間ほど高級車に乗りたがるのと全く同じ次元です。

こういう意見を言うと、すぐに安全性を理由に反対する人がいますが、それなら軽自動車でも安全に走れる環境を作るべきです。事故の際、大きな車に乗っている人間ほど怪我が少ないようであれば、まさに野生の動物の世界と同じではないでしょうか。技術的・法的整備で必ず実現できるはずです。だからこそ、真剣に考えなければならないからこそ、議員や官僚は血税で高級車を乗り回すのではなく、軽自動車を使用して、将来の若者に範を垂れる良い機会ではないでしょうか。その後、学校で環境保護教育を進めれば、よりいっそう効果的に教育できるのです。それが大人の側から「襟を正す」と言う意味です。また、これが本当に「国民の目線で政治をする」と言うことです。

田舎代議士が公費で高級車を乗り回して故郷に錦を飾り、尊敬を受ける時代は終わったのです。こんな簡単なことさえできないようであれば、仕分けなどで大騒ぎしたのはやっぱりパフォーマンスだったと言われても仕方が無いことです。私企業では当たり前のようにできる事が、政府でできないようでは、民主党への期待値が下がるのは当然ではないでしょうか。

2010年2月13日  清水英語特訓教室清水茂治

You Might Also Like