「本物の学力」こそが「生き抜く力」

中1未満の英語力で指定校推薦が取れる現実

最近、某私立女子高から指定校推薦で関西大学に進学した大学生が、大学での授業に不安を感じ当教室で英語を強化するために入塾を希望して来ました。簡単な入塾試験の結果、中学1年生の基礎の実力も無いことが判明し、中学英語の復習を勧めましたが、辞退されました。彼女は今後いったいどうするのでしょうか?

今の大学は中学程度の基礎的な英語知識も無い学生でも問題なく入学できるほど堕落してしまったのでしょうか?また、高校からの指定校推薦というものは、自校の入学者数を増やすためなら、実力の無い生徒でも、とにかく大学に送り込むための方便に過ぎないのでしょうか?

つまり、推薦制度そのものが本来の目的から大きく逸脱し、少子化にあえぐ大学と、授業の質が低下し、もはや生徒に実力をつけることができない高校の利害が一致した産物に成り下がっているのです。

名門と言われる私立大学の指定校推薦を得るためには、学校の成績が良くなくてはいけません。冒頭でご紹介した入塾希望の大学生も、指定校推薦で関西大学に進んだのですから、学校の成績は優秀だったのです。常識的に考えて、高校3年生を終了しながら中学1年生の基礎英語も満足に習得していない生徒が、どうして高校で良い成績を得たのでしょうか。今でも一般入試で入る場合は、関西大学といえばそこそこ難しい大学です。まじめに受験勉強をしながら関西大学に合格できなかった生徒でも、まさか主要科目である英語の実力が中学1年程度ということは無いはずです。

推薦制度のカラクリ

このような例は、何も関西大学に限ったことではありません。同レベルの“名門”私立大学では、実は当たり前のように行われていることです。教育という最も人間の公正さを教えなければならない場で、このような裏取引が公然と行われているのが日本の現状なのです。「実力があれば学校の成績は良くなるが、学校の成績が良くても実力があるとは限らない」と清水が断言できる現象は、最近、特に顕著になってきています。

今や、高校の教師の仕事は生徒に学力をつけさせることではありません。出来るだけ多くの推薦枠を取りつけるために大学を駆けずり回ることが教師の仕事であり、さらにそれ(大学に顔が利くこと)が教師としての優劣の基準となっているのです。これではまさに学校が教育の場としての機能を失っていると言わざるを得ません。

大学側はといえば、生徒の学力を吟味して選別することよりも、いかに多くの学生をかき集められるかが最大の関心事になっていますから、片っ端から高校を買収して付属高校化することに長けた大学が模範大学であると位置づけられています。もちろん、そのような付属高校は、もともと学生確保の目的で創られたわけですから、生徒がなまじ本物の学力つけて、よその難関大学を目指されてはたまったものではありません。

従って、両者の利害が一致し、高校大学とまともな教育を受ける機会さえ失い社会に放り出される学生こそ被害者です。

これを教育の空洞化と言わずして何と言えば良いのでしょうか。

「本物の学力」こそが「生き抜く力」

清水では、自分の力で徹底的に考え抜いて結果を出すという、いわば「本物の学力」こそが「生き抜く力」であると考えています。そして、清水で「本物の学力」=「生き抜く力」を身につけて実社会で活躍する卒業生こそ、私たちにとって何より誇らしい「実績」なのです。