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2011年のメッセージ「大震災からの教訓

2011年12月31日
A Venetian Gondola in 2011

日本の大学関係者は役にたたない

2011年3月11日、日本中を震撼させる未曾有の大震災が東北を襲った。地震国である日本は当然これを自然災害と受け止める。ここまでは納得ができる。地震予知そのものはまだまだ困難な点もあり、この一次災害で被害に会われた人々には気の毒としか言い様がない。しかし、その後の津波の被害は、そしてこの被害が最も甚大であったのだが、原子力発電所からの放射能汚染事故は避けられたのではないか。世の中には学者と呼ばれる人間があふれかえっている。そしてそのほとんどが、さまざまな形で税金を食んでいる。つまり競争社会における空洞地帯に棲む住人たちである。彼らは、支払うかどうかの選択の自由が全く許されない強制徴収の「税金」という財源のおかげで純粋な競争原理から一歩離れた世界で悠々と生息できるのである。野生動物の世界でさえ、生きるために全力を傾け、能力の無いモノは滅びるのだが、この税金という蜜を吸いながら生きていく連中にはこの論理は通用しない。

無数の無能な学者たちが、愚にもつかない形だけの論文と学会出席をネタに給料を食んでいる。今回の災害でその無能さ、そしてその存在の意味さえ無い事実が図らずも露呈した。政府の無能・無策ぶりは言及する事さえ馬鹿馬鹿しいのだが、少なくとも頭脳を売り物に生きることを許されている大学関係者の専門分野での無能ぶりは目を覆いたくなる。

まるで、古代ギリシャのソフィストと同様、議論のための議論ばかりで何の役にも立たない連中ではないか。現実的、具体的な提案など出来る者はだれもおらず、ただ無責任な日和見の意見を、長年かけて学んだ専門用語を羅列し恥ずかしげもなくTVに出てしゃべっている様子は、お笑い芸人が政治のトーク番組で軽薄な意見を述べているのとさして次元は変わらない。原子力関係の学者たちは、私利私欲に狂ってしまった原発推進派の政治家や企業の手先となり、毎年多くの文科省予算を食いつぶして来たに過ぎないのか。安全でも無い物を「安全だ」と大衆を言いくるめるために専門分野を研究してきたのであれば、それは、御用学者などという上品な言葉では表せない、単なる「太鼓持ち」ではないか。予算を割いてくれる「旦那」のためなら、学者としてのプライドなどドブに捨て、有権者を言いくるめるための「詭弁」を研究しているに過ぎない。本来なすべき研究より、組織内での地位保全のために、たとえ役に立たない研究だとわかっていても、いや、それどころか、自分の研究テーマが世の中の役に立つか立たないかすら判断できない頭でも、組織内の仕組みに精通し、うまく立ち回ってさえいれば、地位が保証されるという一般社会の常識からは考えられない奇妙な論理がまかり通るのも、財源が強制徴収である税金に依存しているからである。かくして、一般社会では全く通用しないようなお粗末な連中が、最高学府でふんぞり返るわけである。

かつて小泉元首相のブレーンであった竹中平蔵氏は、「大学教授には所属大学からは9ヶ月分の給料しか出す必要は無い」という主旨の発言をされていた記憶がある。つまり竹中氏の弁によれば、残りの3か月分(つまり夏季や春期の長期休暇中)の収入は自分の実力で外部から得られるくらいの教授でなければ大学に貢献できない、というものである。まことにその通りである。組織にぶら下がってそこから蜜を吸うことしかできない教授から、将来を担う学生が育つとは到底思えないのである。社会に貢献できる研究を本気でやろうとやるまいと同じように大学に寄生できるようであれば、大学の活力は衰退し、やがて日本全体の教育レベルが低下するのも当然の結果である。図らずも、大学関係者は今回の原発事故でその存在意義の無さを自ら露呈してしまったのである。TVに出演する学者たちは新たな結果が出るたびに、恥ずかしげも無く意見を二転三転させ、一緒に出演しているタレント風情にまで馬鹿にされる始末。これが最高学府で将来を担う若者を指導する立場にある連中かと思うと実に情けない。名刺の肩書きに大学教授という文字が無ければ、学生はもとより、誰も相手にしないような情けない連中が現在の大学には数多くいるという事実が暴露されたのである。

日にち薬

日本にはありがたい諺がある。「日にち薬」または「人の噂も75日」、つまり時間がたてば無責任な発言や誤った行動は忘れ去られる。確かにいつまでも人の失敗を責めていても建設的ではない。しかし、問題は間違いが「繰り返される」事である。間違いを厳しく追及し、その責任をしっかり負わせてこそ、間違いの再発が防げるのであり、犯罪者でさえなければ、無能であっても地位が安泰であるという体質では、日本の学問が後退するだけでなく、社会不安も引き起こす。つまり、世の中の公平感・公正感というものは、能力が正当に評価されてこそ社会全体に行き渡る。ある特定の組織だけが、そこに一旦もぐりこめば、能力とは無縁の人間関係だけで生息できるなら、その事実は徐々に組織外に滲み出してくるのである。また、能力を正当に評価しない体質が身に染み付くと、その感覚で学生の選抜までやってしまう。推薦という名の各種裏口入学の横行である。自分たち自身が無能で、学生を正当に評価もできない者たちが、情実交じりの選抜をやって、組織内の腐敗臭を外部に漏らすのである。自分たちを正当化するために詭弁を駆使して、やれ「個性を重んじる」だとか「画一的教育打破」とか、挙句の果てには学問とは全く関係が無い「やさしさ」や「他人を思いやる気持ち」まで飛び出してくると、もはや大学とはいったい何であるのかすらわからなくなってくる。

優秀な生徒を選抜し、日本の将来を担う有能な人材を育てることが大学の本分である。政治ではなく学問に忠実な姿勢を示してこそ、有能な人材を育てられるのであり、保身に汲々とするあまり、学問的良心を捨て去ってしまった学者にはその資格はない。保身と無能さは表裏一体であり、無能な学者は学問的に価値がないだけでなく、政治を学問の世界に持ち込み組織全体を腐敗させてしまうのだ。

責任を取らない体質

結局、東京電力は自分たちでは全く責任をとらず、将来的には電力料金値上げという形で、役員、社員にかかわらず無傷で自分たちの責任を広く国民に負担させるつもりである。

本来なら、役員だけでなく社員も含めて先ずは私財をなげうって、被害者の救済にあたり、しかる後、不足分を納税者に協力をお願いするのが筋であるが、そのような気持ちなど全く無い。一般社員は役員の責任にし、これまで規制に守られて、破格の待遇で生活してきたことも忘れているようだ。メリットがあれば必ずリスクもあるというのが人間社会の当然のルールだが、規制と税金に守られている組織だけには、その常識は通用しないらしい。

かつて、中曽根氏が科学技術庁長官である正力松太郎氏を全面的に応援し、率先して原子力事業を推進したわけだが、当時、三重県に原発を建設することに地元の漁民が一致団結して反対し、三重県には原発が作られなかったという経緯がある。おそらく「飴と鞭」の政策で地元には多額の補償金が提示されたことだろうが、そこが福島県との命運をわけたのだろう。金に目がくらんだといっては福島県民に失礼かもしれないが、毎年、多額の補償金で潤った事も否定できまい。今や被害者一色の福島県の人々だが、かつて自分たちが行った間違った選択に対する反省は必要だろう。その反省がなければ、同じ間違いが繰り返される。おそらく強行に建設反対をしていた人々もいたであろうが、そのような人を変人扱いし、時には狂人扱いまでして、村八分にしたりしながら、自分たちの利益誘導に奔走した地元住人もいたはずだ。地元では原発の誘致を積極的に行った人たちは、建設に反対していた人に謝罪したのだろうか。その総括さえせずに福島県民「総被害者」意識では、必ず同じ間違いが繰り返される。

電気料金の値上げで乗り切る姿勢は、かつて不良債権で大赤字を出した銀行救済に税金を投入するだけでなく、納税者の反感をかわすために、預金などの金利を限りなくゼロにし、銀行に利ざやを稼がせた手口と似ている。政府は自分たちの懐が痛まなければ、国民の懐はいくら痛んでもかまわないという姿勢で、電力会社の横暴を認めるのである。先ほども述べたように、一般の会社なら、先ずは経営者の私財を売却し、次に社員の給料を下げたりリストラをしたりすることにより、ぎりぎりまで身を削って社会に謝罪してから、他の関係の無い人に協力を求めるのが常識だが、電力会社や銀行のように規制で支えられている組織では、最初から「無ければ取れば(盗れば)良い」という論理が展開される。しかも、銀行同様、ホトボリがさめれば(75日とは言わないが)、驚くほどの短期間で(規制と税金のおかげで)満額給与と、それどころかただでさえ多すぎる賞与が復活する。そして、反省のないまま、再び次の原発事故まで秒読みが開始されるのである。責任を取らせると言うことは、何も「罰」を与えるという意味ではなく責任をとらせることにより、「自覚」を高め、再び同じ過ちを繰り返さないために必要不可欠なのである。一般の民間会社では、それによって「学習」し、組織は「発展」するのであるが、規制と税金に支えられている組織にはこのような「学習と進歩」が全く見られないのはそのためである。私は、よく「国が責任を取る」とか「国が賠償(補償)する」という報道を目にするが、国が賠償や補償をするのではなく、関係の無い一般納税者が賠償や補償をしているのである。責任者や担当者の責任が全く追及されない現在のシステムでは、規制や税金で支えられている組織には「責任」をとる能力さえ無いので、信用ができないのも当然である。かくして、皮肉にも大きな「格差社会」が政府による規制と税金の不正配分によって生まれてくるのである。

実は、政府が公平感、公正感を崩している

国の将来を考える政治家や役人が少なくなって久しいが、政治家や役人が私利私欲に奔り、権力闘争に溺れている社会では税金の配分が偏り、まさに実力による格差にかわって、国家権力による格差が生まれてくる。実力格差は多くの人間にとって納得できることだが、一部の権力者の(票集めなどの)都合によって作られた基準による規制で生じる格差は不公平感や不公正感を社会に充満させる。更に、そのご都合主義を隠蔽するために(インターネットなど言論の自由に)更なる規制を加え、ますます社会不安を生むのである。教育面でも実力のある学者より人間関係に長けた世渡り上手が幅を利かせるようになると、実力テスト(受験)より、無能教師の評定に頼る推薦制度がはびこる。偏差値教育が悪の象徴であるかのような印象を植え付けてきた日教組やマスコミも、最近では、あまりの学力低下に表立っては実力テストに反論できないようだが、いまだにモンスター・ペアレントなど、無能教師を隠蔽する造語には余念がない。

公平感や公正感は無理強いするものではなく、能力を正当に評価することによって自然に生まれるのである。自由競争社会において、弱者救済の意味でさまざまな規制を設けることは、特定の偏った特権階級を生み出し、実力以外の不公平な格差社会を生むだけである。特定の団体や職種だけが優遇されたり、補助されたりすれば、そこに不公平が生じるだけでなく、過保護にされた集団は更に弱体化し、ますます保護されなければ成り立たなくなる。そうなると、その集団はもはや社会的役割は果たせなくなり、単なる社会のお荷物になる。役に立たないばかりか「むしろ邪魔な存在」になる。しかしその邪魔な集団も頭数だけはそろえているので、政治力だけは持っている。自然淘汰の法則からはずれるような集団が増えれば増えるほど社会の歪は大きくなり、やがて公正さなど消え失せる。

若い世代を育てるには、子育て支援金など不要である。努力をする若者を認め、享楽的な生活を送る若者にはそれ相応の社会的制裁が下るという至極当たり前の仕組みを貫けば良いのである。その前に、思慮深い人間が増えれば増えるほど困るので、TVの低俗番組に大衆の目を釘付けにしておき、知的レベルを低下させるような人間が国家の中枢に居座る現状を1日も早く解消すべきである。

2011年12月31日  清水英語特訓教室
清水茂治

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